2024年6月3日、NHKで放送された『映像の世紀バタフライエフェクト・安保闘争/燃え盛った政治の季節』を見た76歳の父が、「唐牛さん、懐かしいな~」と昔話を始めました。子供のころからよく聞かされていた60年安保のメンバーの話を、記憶が鮮明なうちに記録しようと、いろいろと聞いてみました。
小料理「みその」と叔母の三瓶その
小料理「みその」は、新橋3丁目で現在も営業されている「ひろ作」さんの隣にあり、父の年の離れた姉である三瓶その(1921年12月~2014年/享年92歳)が営んでいたお店です。
叔母は築地の高級料亭『蝶々』で働いていましたが、新橋駅前の居酒屋『蝶々』の店長を任されました。築地のおかみさんが網代に隠居したのを機に退職し、昭和37年頃に自分の店を持ったそうです。
「みその」はわずか3坪のお店で、6席程度のカウンター席と1人用のテーブル席がある小さなお店でした。2階と3階は住居になっており、泊まりに行ったときは2階で過ごしていました。
小さな店ながら常連客で賑わっており、その中には60年安保のヒーローだった唐牛健太郎さん、堀江健一さん、レッツゴーセイリングクラブの社長だった五島さん、篠原さん(こまちゃんと呼ばれていた)、夏目漱石の孫の松岡さん、インドネシア大使館前の大地主で殿様と呼ばれていた人物もいたそうです。
私の子供時代の思い出
小学生の頃は、週末になると2歳年下の弟と一緒に叔母の店に泊まりに行き、鉄道写真を撮影したり、ニュー新橋ビルでインベーダーゲームやギャラクシーアンを楽しみました。1階にあったパチンコ店を叔母がよく利用していたので、小学生ながら横に座り手打ちのパチンコを楽しんでいました。朝は新橋3丁目のマクドナルドでチーズバーガーとマックシェイク、昼はニュー新橋ビルの肉の万世でステーキ、夜は烏森通のお寿司屋に行くのが定番でした。「みその」営業中に顔を出すと叔母に「顔を出すんじゃない」と𠮟られましたが、常連さんが「小遣いやろう」と千円くれるのも楽しみの一つでした。
父の若い頃の記憶
父は18歳から結婚する22歳頃まで『みその』の3階を定宿としていました。最初に入った会社は九段下にあった東販(本の取次会社)で、1年半後に岩崎書店にスカウトされて転職しています。
この頃、18時からアマチアに開放していた木瀬部屋で相撲の稽古に励み、田中英寿さん(故日大理事長)らと共に岩手国体に東京都代表で参加したそうです。全国青年選手権大会には4年連続で参加しました。第9回大会では優秀6選手に選出、第10回大会では第3位になりました。翌年に開催された11回能登小木大会ではベスト8に入り小木婦人会技能賞を受賞しました。靖国神社の奉納相撲に参加したり、文京区わんぱく相撲の監督を4年間(若貴が小学生で在籍)務めました。
また結婚前には大山倍達さん(極真空手創始者)からスカウトを受けたこともあるといいます。母と母の妹が池袋の極真会館に勤務しており次女(グレースちゃん)の世話をしていたことがご縁のようです。第一回オープントーナメントには主賓として招待されたものの長靴を履きラフな格好が場違いだったため一般席に移してもらったと言います。大山館長とは時々癒しの森指圧鍼灸院のお隣の菱山ビルB1(現在はスポーツバー)にあった喫茶店でお茶を飲んだと言います。
会社から帰宅すると、10歳程年上の60年安保のメンバーがみそのに集っているので、一緒に飲んだり、喫茶店に行ったりして過ごしていたようです。
唐牛健太郎さんと堀江健一さん
この頃(1964年~1969年)、唐牛さんは毎日のようにみそのに来ており、酒は毎回一升、つまみはお茶で閉店まで過ごしていたそうです。最初の奥様も2度ほどみそのでお会いしたそうです。叔母の話では次の奥様も1度連れてこられたと話していたようです。
堀江健一さんは唐牛さんとレッツゴーセイリングクラブを始めました。大阪から時々「みその」に顔を出していた堀江さんは当時お酒を飲まないので、父を見つけると「喫茶店に行こう」と誘い、バニーガールが給仕する1杯500円!(通常60円)の喫茶店に連れて行ってくれたそうです。
レッツゴーセイリングクラブには、叔母の娘(和代)が事務員として働いていたこともあり、ヨットを乗りに林木座海岸に何度も同行したようです。
昭和40年の秋に放送されたNHK?ドキュメント『その後の唐牛健太郎』には叔母、唐牛さん、堀江さんが一緒に記録されていたそうです。
映画『太平洋ひとりぼっち』|1時間36分1964年
1962年5月、堀江謙一(石原裕次郎)は、ヨット”マーメイド号”で出発した。悪天候と体力消耗、そして何より孤独との闘いは人間の限界を超えた。果たして彼は、目指すサンフランシスコへ無事辿り着けるのか!?実話を元に作られた冒険と感動の記録。【アマゾンプライムビデオで見る】
篠原浩一郎さん(こまちゃん)
篠原さん(こまちゃん)は週に一度ぐらいお店に来ていたそうです。唐牛さんは北大、こまちゃんは九州大だったと言っていたので、篠原浩一郎氏だったのではないかと思われます。ただし、なぜ「こまちゃん」だったのかは調べることができませんでした。こまちゃんとは唐牛さんが飲んでいる間に近所の銭湯によく一緒に行ったと語っています。
こまちゃんは叔母の娘和代の葬儀にも参列してくれたとのことです。
夏目漱石の孫 松岡さん
子供のころ実家に積み木のおもちゃがあったのですが、「これは夏目漱石の初孫の松岡さんから買ってもらったものなんだから大切にしろよ!」と父がよく言っていました。松岡さんは築地『蝶々』からのお客様で、叔母が「みその」を開店してからもよく足を運んでくれたお客様でした。
しかし、夏目漱石の家系図を調べてみると、そのような人物を見つけることができませんでした。毎回酔っぱらって店に来ていたそうなので、夏目漱石を語る嘘つきだったのではないか?とも思いました。
ところが、調べていくうちに本当に漱石の孫であることがわかってきました。Wikipediaによると、漱石の長女筆子さんの夫は漱石の門下生で小説家の松岡譲さん。松岡譲さんの子供は松岡陽子マックレイン(二女)、半藤末利子(四女)だけ記載されていますが、『長男は酒乱であったため情報が隠されている』と付け足されています。
『夏目家の糠みそはどこへ 漱石のひ孫、一族の思い出告白』によれば、松岡聖一さん(享年58歳)で間違いなさそうです。
夏休みに鋸南町吉浜の実家に戻っていたある日のこと。台風が直撃している夜、就寝の準備をしていると、突然、戸を叩く音が聞こえてきました。「こんな嵐の日に一体誰が?」と戸を開けてみると、なんと松岡さんが立っていたのです。その瞬間、驚きで声も出ませんでした。どうやら、みそので住所を聞きつけて訪ねてきたようです。
唐牛さんの晩年
22歳でみそのの居候を終えた父は時々しか新橋に行くことがなくなりました。唐牛さんも放浪の旅に出かけみそのに来なくなりました。
数年後にみそので会った際には「鹿児島か沖縄の島にいる。島のおまわりは俺に頭を下げるが、俺が頭を下げるのは床屋だけだ」と笑って話されたそうです。
岩崎書店在籍時、北海道の紋別本屋の遠軽支店に出張販売に行っていたときのことです。売り込みに行ったブックス小林の村上店長に「北海道に知り合いはいるか?」と聞かれました。父は「知り合いはいませんね。唐牛さんが北海道に戻っているとは聞いていますが」と伝えました。店長は「おまえみたいな若造が唐牛さんを知っているはずないだろ。今電話するから、嘘だったら一冊も買わないぞ!」と言われたそうです。店長が電話すると「俺の行きつけの店のおかみさんの弟だからよくしてくれ」と返答があり信用してもらい大量に注文をいただいたそうです。
唐牛さんは晩年大腸がんを患いながら東京に戻ってきました。人工肛門を付けていたので、「銭湯ではみな俺に近づかない」と言っていたようです。鴨川の亀田病院に入院していたときには父・和代・私の弟の3人でお見舞いに行きました。弟の話では「レストランで立派な食事をご馳走してもらった」そうです。(誰が支払ったのかは不明)
入院前日に病院の先生の披露宴があり「今帰ってきたぞ」などと言いながら大ジョッキ3杯飲みほしたと語っています。
1984年3月4日(享年47歳)青山葬儀所の葬儀の進行係は紋別のブックス小林の社長が務めました。当日は加藤登紀子さんがお別れの歌を披露しました。その(叔母)、和代(叔母の娘)、父(和治)の3名で参列したと言います。
ベンケイ藤倉さんとの思い出
ベンケイ藤倉(藤倉 勉)さんは、父の鋸南町鋸南第一中学校の同級生です。1968年12月25日に日本ミドル級20代チャンピオンになりました。左右フック、アッパーの連打を得意とするファイターで、武蔵坊弁慶に扮してリングに登場するスタイルで人気を博していました。
ベンケイ藤倉さんはプロ転向後、東日本新人王決定戦の準決勝まで、試合の前日になると「みその」の3階に宿泊していたそうです。「ここに泊まるのは縁起が良い」と言っていたそうです。
東日本新人王決勝では地元の鋸南町からバス3台で後楽園ホールに応援に行きましたが1ラウンドKO負けで皆がっかりした思い出があります。(この日はホテルに宿泊)
この頃、ボクシングは頻繁にテレビ中継されており、ベンケイ藤倉さんはメインイベントに登場する人気者になっていたそうです。
唐牛さんともみそのを通じて交流があり、テレビ中継でベンケイがピンチになると「みその」を飛び出しワンカップ大関を片手にタクシーに乗り後楽園ホールに向かいました。リングサイドに駆け込むと「タッチ、タッチ」と俺に試合をやらせろ!と言わんばかりの行動に出たそうです。アナウンスで「関係者以外近づかないでください」と言われると「俺は関係者だ!」と返していたといいます。
みそのに時々顔を出していた北海道新聞の唐牛さんの番記者だった北島さんもリングサイドの記者席でよく観戦していました。
星よ嘆くな 勝利の男|1時間37分1967年
競馬場で矢代(二谷英明)は速水(渡哲也)を見つけた。速水は未来のチャンピオンと言われていたが突然失踪、面倒を見ていた浅吹教授をそのショックで死に至らしめた男だった…。ボクシングから身を引いていた男が恩師の死に報いるため、再びリングに立つことを決意する。石原裕次郎『勝利者』のリメイク。ベンケイ藤倉氏(撮影時はデビュー3年目、翌1968年12月、日本ミドル級王者になる)はチャンピオン坂井富士夫役で出演 【アマゾンプライムビデオで見る】
「みその」の閉店とその後
バブルの前、店をを買いに来た業者がいました。3坪の借地権と建物だけだったので大した価値はなさそうに思われましたが、大金を提示されたことで売却し、神奈川県の上星川の新築建売物件に引っ越しました。
娘の和代は銀座7丁目で『金太郎』というスナックを営んでいましたが、同居するために閉店しました。「金太郎」は大橋巨泉のイレブンPM初代アシスタントをしていた銀座のバーのママ堤妙子さんに引き立てられており、”シャガール”の赤い絵を譲っていただきました。
高校3年生だった私は1月7日、この上星川の家のテレビで小渕さんの『平成』という記者会見を見ました。
平成15年に娘和代に先立たれ、高齢になった叔母を一人にしておくのは心配であるとして、85歳の頃に父が埼玉県に引き取り、89歳からは近所の老人ホーム「美咲会 みずほ苑」にお世話になりました。92歳で亡くなりました。
祖母は面倒見は良いが感謝されない叔母のことを「仏作って魂入れずとは”その”のことだね」と時々呟いていたといいます。叔母はおしゃべりで世話好きだったので、新橋では「おそのさん」と親しまれていました。しかし何でも思ったことを話すので一部では煙たがられていたようです。肝っ玉母さんのような性格だったので60年安保のメンバーが安心して集えるみそのが繁盛していたのだと思います。
父との会話を振り返って
父の話を聞きながら、60年安保という激動の時代を生き抜いた彼らの青春時代と、当時の日本の熱気や人々の情熱が感じられました。小さな「みその」の店が、多くの人々の交流の場となり、歴史の一端を担っていたことを改めて実感しました。
これからも父の記憶とともに、その時代の出来事を大切にしていきたいと思います。